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見えるものと見えないもの 3/4

2011.07.17.Sun.14:13
児童園を後にした私たちは、横田さんの車で仙台市から福島市へと移動しました。
座席後部には、翌日被災地に届ける予定の車椅子が積まれていました。

途中、甚大な津波被害を受けた名取市を経由していきました。
海沿いの道はガレキの多くがすでに片付けられ、道路脇はほとんど更地になっていました。
根こそぎ流される被害を免れた民家が更地の中に点在し、修復された家々の窓から生活の気配が垣間見えます。
震災後4ヶ月でここまできれいに…と思った矢先、道路脇に多くの漁船がオブジェのように積み重なる光景が目に飛び込んできました。
やがて、撤去されたガレキの山が続きます。
いまにも崩落しそうな建物が、辛うじて形を保っている地帯もたくさんありました。
ひしゃげた鉄骨。ぐちゃぐちゃに壊れた窓枠。まるで、映画のセットのようでした。
「この辺はかなりガレキの撤去が進んでいて、車でご案内できるレベルなんですけど、石巻はまだまだですね。僕も物資を届けにいくんだけど、ガレキの山の高さがハンパないです」。

車内の放射線量は、県境に近づくと、目に見えて上がりはじめました。
片側は阿武隈川を臨み、もう片側の斜面には緑が生い茂り、ドライブには絶好のロケーション。
そんな場所で、明らかに周囲より倍以上線量が高い、いわば「ミニホットスポット」と見られる地点も、複数見つかりました。
線量は、車内でも1.0μSv/hを超えました。
国見ICを越え飯坂に向かう道にそれらは点在し、その多くが起伏の多い路面の、谷ではなく頂の部分に当たりました。
やがて激しい驟雨が車を襲い、線量はさらに急上昇。
ふと横を見ると、横田さんが、ああ…、とうなだれています。
「いやー、実は昨日洗車したばっかなんですよね…」。
聞けば、「東京からお客さんが来る! しかも女性二名。どうしよう!」というわけで、急遽菓子折を用意し、車を洗い…いろいろご準備くださったというのです。
ああ、気を遣わせてしまったんだな、と申し訳なく思いましたが、横田さんの慌てっぷりがおかしくて、思わず吹き出してしまいました。
「ごめんねー、来たのがこんな私たちで」と私。
「だって、私たち全然お客さんじゃないのよ」とことばを重ねるわね。
「いやいや、こちらこそ。まあバレてるとは思うけど、僕ら皆こんなフツーな人たちじゃないですか。お二人の想像を裏切ったらどうしようと思って、ホント焦って準備して…。なのに、雨まで降っちゃうかあって、ねえ…」。
放射能雨がボンネットを激しく打ちつける車内で、私たちは大いに喋り、大いに笑いました。
雨は10分ほど続きましたが、やがて夏の陽射しが戻ってきました。

JR福島駅の近くのビジネスホテルに、私は宿をとっていました。
駅前商店街が近づくにつれ、通行人の数はどんどん増えてきました。
「誰もマスクしてないでしょ」と横田さん。
制服を着たポニーテールの少女が、自転車で車道の脇をすり抜けていきます。
風をはらんだ白いブラウス、艶やかな長い髪。
あのブラウスは毎日洗濯できるけど、スカートは夏休みまでクリーニングしないんだろうな…そう思いながら、走り去る少女の姿を目で追いました。
ベビーカーを押して歩く若い母親。集団で、何やら楽しげにじゃれ合う少年たち。ゆっくりとした足どりで、一歩一歩かみしめるように歩くお年寄り。…
目に入るすべてが、あまりにもありふれた日常のひとこまでした。
たったひとつ違うこと、それは、ガイガーカウンターが告げる、信じられないほど高い数値だけでした。

わねと私は、マスクをつけ、長袖の羽織ものを着て、車から降りる身支度を整えました。
その最小限の準備すら違和感をおぼえるほど、街には平穏な日常の風景が広がっています。
「福島駅の…どっち口だったかなあ、線量が高いらしいです」と言う横田さんご自身も、マスクは持参していません。
予備のマスクを常に携帯している私は、彼にもマスクを差し出そうかと一瞬ためらいました。
そして、喉まで出かかったことばを飲み込んで、車を降りました。

実はこれまでのやりとりの中で、被曝のリスクに対する横田さんと自分との温度差を、私はしばしば感じていました。
その理由の一端は、やはり日々接する情報の質的な差異にあるのではないかと思います。
震災後彼のPCが故障し、いまもネットに接続できないという事実を知ったのは、つい最近でした。
ブログでの発信は携帯電話でもできますが、多くの情報を検索・閲覧・検証するには限界があるでしょう。
今回の旅で、私は彼らに目を通してほしい情報をプリントアウトして持参し、手渡しました。
そして、私自身の危惧も伝えました。
それらの情報を手にした彼らが、今後何をどう判断し行動するのか。
それは、彼らに委ねるほかありません。

それでも車から降りた私は、ほとんど打ちひしがれるような思いでした。
こんな危険な場所で、こんな軽装でいちゃいけない。
みなさん、すぐに逃げてください。
大声で叫び出したい気持ちを堪えながら、私はホテルへの道を急ぎました。

(つづく)

見えるものと見えないもの 2/4

2011.07.16.Sat.01:04
横田さんの携帯電話には、相変わらずひっきりなしにいろんな連絡が入ってきます。
忙しい業務の合間を縫ってのミーティングとなりました。

まず私から放射能の基礎的な概念説明をさせていただき、参考文献・資料とガイガーカウンターをお渡しし、空間線量や食品の測定方法、そして測定値の見方についてお伝えしました。
寄付させていただいたガイガーカウンター(*註1)は、硬β・γ・X線の線量を測るもので(核種は特定不可)、食品に含まれる放射性物質を測定するためのトレイも付属しています。
簡易測定ではありますが、毎日続ければ、変動はある程度把握できます。
牛乳を測る方法について説明している時、隣で聴いていた友人のわねは、涙ぐんでいました。
二人のお子さんの母親でもある彼女は、「毎日牛乳の汚染を心配するママたちの気持ちを考えたら、何だか… ごめんね、私涙もろいから」と言いながら、また流れる涙をタオルハンカチで必死におさえました。

一通り話が終わると、横田さんは椅子から立ち上がりました。
「さっそく測ってみましょう」。
機器のスイッチを入れると、彼はまず足早に一番広いプレイルームに向かいます。
子どもの頭の高さに合わせ、部屋の中央、角、窓辺、家具の近くなど数カ所で測った値は、いずれも0.05~0.08μSv/h程度でした。
次に、先ほどまで子どもたちがお昼寝をしていた部屋へ。
開口部が大きい部屋は、プレイルームよりは若干線量が高めでしたが、いずれも0.1μSv/h以下にとどまっています。
続いて屋外の計測。やはりさほど高い値は出ません。
建物の周囲は専用駐車場になっており、アスファルトで舗装され、かなりの勾配がついています。
その頂に児童園が建っているので、雨水などはすべて建物から遠ざかる方向に流れていく格好になっています。
ただ、駐車場脇の側溝にしゃがみこんで計測すると、予想通り若干高い値が出ました(最高値は0,1μSv/h台)。
「高いな」と横田さん。
「測定場所を増やしていく必要がありますね」と私は応じました。

部屋に戻って来た横田さんを、スタッフが見つめています。
誰も「どうだった?」と口に出しては尋ねません。
でも、彼の答えを待つ真剣な眼差しが、ことば以上に雄弁に、彼女たち(スタッフの大半は女性です)の不安を物語っていました。
「まあ、大丈夫そうだよ、とりあえずは」という横田さんのことばに、ぴんと張りつめた空気が少しずつほどけていくようでした。
児童園はどの部屋も掃除が行き届き、フローリングも美しく磨き上げられています。
それが線量の低さにつながっている可能性もあるのでではないか、と私は言い添えました。
「拭き掃除がいいんですね」
「部屋の隅はとくに重点的にした方がいいかな」
スタッフの方々も皆さん真剣です。
私も、できる限り役立つ情報を提供したいと思うのですが、除染作業には多くの困難が伴います。
差し当たり、以下のことを伝えました。

①できれば使い捨ての雑巾を使い、掃除のときはマスクをつけること。
②使用後はとりあえずビニール袋などに密封し、子どもたちから遠ざけて一時保管すること。
③そのまま一般ゴミに出すと軽装の収集作業員・処理作業員の被曝に繋がってしまうこと。
④ゴミが焼却処分されれば、再び空中に汚染が放出されてしまうこと。
⑤従って、使い捨て雑巾は水洗いしてから捨てた方がが望ましいこと。
⑥それでも下水に汚染を流し込む結果にはなってしまうが、下水処理場の汚泥問題はすでに顕在化しており、一般ゴミの収集よりはチェックの目が届く可能性が高いと考えられること(これは予想というより、切実な希望です)。
⑦最終的には、個人や中小事業所による自助努力には限界があり、適切な除染のためには処理の各段階で行政によるサポートが必要となること。


説明しながら、こみ上げてくる感情を、私は必死で堪えていました。
それが哀しみなのか、怒りなのか、苛立ちなのか、無力感なのか…自分でも見きわめがつきませんでした。
自分が話していることが、まったく無意味ではないにせよ、いっときの気休めに過ぎない部分が多いことを、私は自覚せざるをえませんでした。
なぜ除染が必要な場所に、子どもたちがいるのか?
なせ支援活動でヘトヘトなスタッフの方々が、その上にリスクを冒して除染に携わらなければならないのか?
なぜこんなに大切な情報を、行政から得ることができないのか?
何もかもに納得がいかぬまま、私はことばを絞り出すように話し続けました。

スタッフの方々は、子どもたちがお散歩に行く公園の汚染を、とりわけ心配しておられました。
「公園も道も、とにかくいろんな所を測ってみます」と横田さんは約束してくれました。
彼ら/彼女らと話しているうちに、ふとある本の一節が浮かんできました。

「叩けよ。さらば開かれん」とかいう文句が聖書にあるそうですが、私たちは最後まであらゆる門を叩きつづけました。(中略)どの国家にせよ、国家は私たちに味方しない。国家の門をいくら叩いても返事がないのですから、そういうことがわかってきました。門を叩いて返事があったのは、個人であり、個人たちでした。(*註2)

いま私の目の前にいる、真摯な眼差しを持つ、若い人々。
他の何を信じられなくても、信じられるものがあるとしたら、人しかない。
心折れそうになるたび、きっと今日という日のことを、私は想い出すんだろうな。
夏の陽射しが差し込むプレイルームで立ち話をしながら、そんなふうに感じました。

(つづく)

*註1: 機種名はPripyat Beta-gamma radiation RKS-20.03。ウクライナBTK 社(現 ECOTEST社)製。

*註2: ながたなにがし「「句会」についての個人的まとめ」『となりに脱走兵がいた時代』所収。
ながたさんは、ベトナム戦争当時、米軍から脱走してきた兵士たちを支援するJATEC(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)の中心メンバーでした。脱走兵たちは日本各地の個人の家庭などに匿われ、当初はソビエト連邦(当時)を経由するルートを利用してスウェーデン等に亡命していました。しかし、後にソビエト連邦は、自国に有利な情報をもたらす可能性のあるパイロット以外の脱走兵の受け入れを拒否。出口がないまま脱走兵を受け入れ続け、匿い続ける苦しい時期を支えたのは、日本の無名の一般市民たちの協力でした。

見えるものと見えないもの 1/4

2011.07.13.Wed.23:30
被災地を訪ねる旅から戻ってきました。
いろんな想いが身体の中を駆け巡っているのに、ことばが見つからない…そんな感じです。
アテもなく、オチもなく、思い浮かぶことをそのままに書き綴っていこうと思います。

7月11日、「東日本大震災支援①Action Project」の存在を私に教えてくれた、カウンセラーの和根崎行枝さんと東京駅で待ち合わせ。
彼女は、高校・大学時代のクラスメート(なので「さん」づけがチョー違和感。以下普段通り「わね」と略記します)。
酷暑のなか落ち合った二人は、打ち合わせていたわけでもないのに、まるでリゾート地にでも旅行するみたいなタンクトップ姿。
でも、彼女も私も、鞄の中には長袖の羽織りものをしのばせ、マスクを準備していました。

新幹線はやて167号で、仙台へ。
車中では、ずっとガイガーカウンターのスイッチを入れっ放しにしておきました。
東京駅を出るときには0.1μSv/h台を示していた線量計が、宇都宮を過ぎたあたりから、ぐんぐん上がりはじめました。
トンネルに差し掛かるといったん数値は下がり、抜けるとふたたび上昇。
窓の外には、夏の陽射しを浴びて輝く樹々と澄んだ空、そして点在する民家が遠くまで続いていました。
美しい景色でした。
福島県に入ってしばらくすると線量は1μSv/h以上になり、やがて1.5μSv/hも超えてしまいました。
計測値はγ線のみ、しかも新幹線の車内での線量です。
車窓から、福島市内にある看護学校の校舎が見えました。
あのキャンパス内の線量は…?

仙台駅に降り立つと、「東日本大震災支援①Action Project」代表の横田智史さんが車で迎えに来てくださっていました。
メールやメッセージ、電話でのやりとりを交わしてはきたものの、顔を合わせるのはこれが初めて。
私たちより一回り若い横田さんは、事前に勝手に創り上げていたイメージを1mmも裏切らない、大らかで温かい空気をまとった、笑顔の絶えない好青年でした。

仙台駅周辺の線量は、バラツキはあるものの、私の住む新宿区とさほど変わりませんでした。
私たちを乗せた車は、彼の勤務先のひとつ(横田さんは複数の児童園・保育園・学習塾等の園長・理事長をされています)であり支援活動の拠点となっている「English School Imagine Japan 仙台長町児童園」へと向かいました。
運転中、そしてこの後一日中、彼の携帯電話はひっきりなしに鳴り続け、私たちの会話はしばし中断を余儀なくされました。
業務連絡、保護者からのクレーム対応、職員への指示、 …本当に多忙な毎日を過ごしておられることが、短い移動時間の間にも充分に察せられました。
この過密なスケジュールの中で支援活動を継続していることに、頭が下がる思いでした。

児童園に着くと、子どもたちはお昼寝の真っ最中。
スタッフの方が入れ替わり立ち替わり現れ、ご挨拶。
皆さんこちらが名乗るたびにぱあっと明るい表情になり、「ああ、いつもありがとうございます」と笑顔で応えてくださいます。
日々子どもたちと接しているからなのか、それとも生まれもってのものなのか、どの方もふんわりと相手を包み込むような優しさが印象的でした。
「スタッフたちに恵まれているからこそ、この活動を続けていられるんです」。
これまでのやりとりで、横田さんからしばしば伺ったことばが、スタッフのお一人お一人の笑顔とぴったり重なり合うように感じました。
聞くところによると、当初は一人で支援活動を始め、一人でもやり抜こうと奮闘していた横田さんの姿を見て、スタッフの方々が何も言わず協力してくれたのが、事の始まりだったそうです。
もちろん勤務時間内でできることは限られており、連日サービス残業が続いているとのこと。
また、送られてくる支援物資が不足しているときには、横田さんはもちろん、スタッフの方々もそれぞれ自腹を切って物資を調達するのだとか。
このスタッフの方々の好意に甘えながら活動を継続してもいいのか、横田さんは一時期かなり迷っておられたそうです。
自分たちの力量をはるかに超える活動内容であることは、誰もが自覚しています。
それでも、とくに被災者の苦しみと直接向き合う立ち位置にいる人々は、限度を超える負担を自らに課すことになりがちです。
横田さんやスタッフの方々と実際にお会いして、そのご尽力に改めて敬服するとともに、その優しさが彼ら自身を雁字搦めにしてしまわないかという危惧もおぼえました。
そんな状況に陥らならないために、被災地から少し距離を置いた場所で、支援活動の継続を担保する仕組みが必要だと感じた次第です。

(つづく)
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