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自分の領域/他分の領域

2012.03.05.Mon.14:22
今日は朝から土砂降り雨
こんな日はかならず、駅の構内などで「傘振りオジサン」(仮称 ←オジサンじゃないときもあります^^¡)に出くわします。
傘の柄をムンズと横向きにつかみ、勢いよく腕を振って歩くのが特徴で、中高年男性に多く見られますが、時には若人や女性もいます。
こういう人が自分の前を歩いていたら、まず充分に距離をとって安全地帯に避難し、それからこの人はなぜ傘を横に持って腕を振るのかなーと観察してしまう私です。
大抵の人は、頭を上げ、まっすぐ前方を向いて元気よく歩いていくのですが、横や後ろには注意がまったく向いていないようです走る人
自分の身体の動きが及ぼす範囲について、すごく無頓着なんだろうなあ。

似たようなカテゴリーに「カート轢き逃げオバサン(←しつこいけど仮称、オバサンじゃないときもあります^^¡)」という方々もおられます。
人混みで急に方向転換したり蛇行したりして、カートの内輪差などで傍の人を巻き込むのが特徴です。
これもまた、その空間における荷物の大きさや動き方、周囲の混雑の度合いなどが頭にインプットされていないために生ずる現象だろうと思います。

フラメンコには、マントンやアバニコ、コルドベス、バストンなど、小道具を使って踊るものがあります。
「上手な踊り手はマントンのフレコにまで心が行き届いている」などといわれますが、つまりそこまでを自分の身体の範疇として実感できているかどうか、ということではないでしょうか。
素材、大きさ、形状、質感をリアルに自分の身体の延長として実感していないと、モノに振り回されたり、壁に激突したり、周囲のものをひっくり返してしまったりしますよね。
これは実は小道具に限ったことではなく、舞踊などのボディワークでは自分自身の身体もまた「道具」として使いこなす感覚が求められます。
たとえば自分の腕や脚の重さや長さを具体的に捉え、それらの動きにつれて周囲の空気がかきまぜられたり引き裂かれたりする様子を体幹で感じ取ることが、自分の身体と仲良くなる第一歩になります。
初心者の方によく見られる、スタジオの大きな鏡に写る自分自身を見るのが恥ずかしい、という感情は、おそらく鏡に写る自分の姿しか目に入らないからではないでしょうか。
鏡に映った自分の身体と、その周りの空気とを同時に見ること。
身体の動きによって、空間がどのように変化するかを感じ取ること。
それだけでも恥ずかしさはかなり減少し、見るべきものがしっかりと視界に入ってくるのではないかと思います。

「自分」の範囲は、皮膚の内側に閉ざされた空間に限定されているわけではありません。
そして、「自分」があるのと同じように「他分」という領域があるということも、しっかりと把握しておく必要があります(*註)。
そうしてこそ、「自分」と「他分」の出逢いやふれあい、そしてその間を分かつ壁がなくなりひとつになるひとときが、とびきり幸せな瞬間として感じられるのではないでしょうか。
雑踏の中の傘の一突きやカートによるタックルが、あまり幸せな出逢いではないことは言うまでもありません。

さーて、これから税務署までお出かけしてきます。
今日は何人の傘振りオジサン(仮称)に出会うかなあ…

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*註 : 日本語には「自分」という言葉はあるのに「他分」という言葉がない、と指摘されたのは、農業経済学の専門家であり台湾近代史研究において先駆的業績を残された故・戴国煇(タイ クオ フェイ)氏でした。『日本人とアジア』(戴国煇著 新人物往来社刊 1973年)を高校時代にはじめて読んだとき、とても大きな衝撃を受けたのを憶えています。一連の著作から日本による台湾の植民地支配について多くを教えられましたが、「他分」をきちんと認め尊重せよという主張は、「自分」を否定された歴史を持つ立場からの痛切な叫びでもありました。後にご本人とお会いする機会に恵まれましたが、そのときの笑顔とこの言葉は、氏が亡くなった今も胸に残っています。
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