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歩行寿命と精神的自由

2011.09.27.Tue.01:35
プロフィールの自己紹介欄に、私は「歩行寿命」というあまり聞き慣れない言葉を書き連ねています。
今日は、私が現在の仕事に関わりはじめた「原点」について、ちょっと書いてみようかな、と思います。
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数年前、新潟に住む祖母を訪ねたときのことです。
祖母の家から歩いて一分もかからない場所に、古くからなじみの肉屋さんがあります。
店頭で揚げてくれる熱々のコロッケが大好きで、こどもの頃、お小遣いを握りしめて走った記憶がいまも鮮やかにに思い浮かびます。
懐かしくなり、思わず全種類「大人買い」して祖母の家に戻ると、彼女は歓声をあげました。
「や、や、十何年ぶりらわぁ、いやー、懐かしろぉ」。
そして、はらはらしながら見つめる私の目の前で、大量のコロッケを一人で平らげてしまったのです(私の食い意地のルーツを見た思いがしました^^¡)。

遠方に住む私が懐かしく思うのは当然としても、こんなに近くに住んでるのに?と訊ねると、一人では行けない、という答えが返ってきました。
彼女は、長年患った持病なども原因して、膝関節の疼痛や足部の痺れといったトラブルをかかえています。
家には、至る所に手すりが取りつけられています。
とはいえ、それに頼り切っているわけでもなく、見ているほうが疲れるくらいパタパタと元気に歩き回っています。
でもそれは、自宅が彼女にとって究極の安全空間だから。
たとえ片道わずか一分足らずの場所でも、喫緊の用事でもないのに出かけるという機会は、彼女の日常からすっかり失われていました。
買い物はヘルパーさんや近所に住む叔父に頼み、あるいはその車に同乗し、介助つきで出かけます。
他人様に迷惑をかけたくないという気持ちが人一倍強い彼女は、小さな不便や不満、わだかまりをひとり飲み込むという癖を、知らず身につけていました。
高齢者向けのコンフォートシューズや整形靴を求めたことも一度ならずありましたが、それらの靴はいま、靴箱の片隅でひっそりと眠っています。
そう、彼女にとって、もはや問題は、靴ではないのです。

自分の身体との対話に、心底疲れきってしまった人々は、本当にたくさんいます。
まだ若さにあふれていた時代、
最初に違和感や痛みを感じたとき、
あるいは、挑戦する意欲をまだ失っていなかったころ、…
求めていたときに、適切な情報提供や正確な対処方法のアドバイスが得られなかった結果、彼/彼女たちは、諦めることを覚えてしまいました。

靴や足、ボディワークに関わりを持つ人間として、私には自分なりの理想があります。
「歩行寿命」を伸ばすことは、人生を人任せにせず、自分の精神的自由を手放さない、ということです。
どんな人生を選択するか、決めるのは自分自身です。
どんな生き方を選ぶにせよ、精神的自由という抽象的・観念的なものを担保し実現するのは、身体という、この上なく具体的なもの。
具体ということばを、「体を具える」と書くのは、とても正しい表現だと思います。

コロッケを買いに出かける精神的自由、
散歩する、友人を訪ねる、あるいは映画やライブを観に行く精神的自由、
踊り続ける精神的自由、…

たとえ靴や杖や手すりやベンチの力を借りたとしても、休み休みしながらしか歩けないとしても、以前と比べたらカメの歩みになってしまうとしても、行きたい時行きたい場所に一人で歩いて行ける自由は、かけがえのないものだと思います。
とりわけ、歳を重ねても踊り続けたいと希うならなおさら、若い頃のようには足が動かなくても、自分の身体の声を聞き、自分の身体にきちんと心遣いをするという作業が、きっとフラメンコとの関係をも深めてくれると確信しています。
だって、フラメンコはとっても正直だから。

誰にでも、自分の身体に不満や不安や気に食わないところが、いっぱいあると思います。
私だって、そう。
でも、この身体が私の一生を支えてくれるのだと思うと、ゴクロウサマ、コレカラモヨロシク、と声をかけたくなるのです。

誰もが自分のペースで、自分のリズムで、人生を歩んでいけたらいいな。
そんな風に思いながら、日々この仕事を続けています。

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