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見えるものと見えないもの 2/4

2011.07.16.Sat.01:04
横田さんの携帯電話には、相変わらずひっきりなしにいろんな連絡が入ってきます。
忙しい業務の合間を縫ってのミーティングとなりました。

まず私から放射能の基礎的な概念説明をさせていただき、参考文献・資料とガイガーカウンターをお渡しし、空間線量や食品の測定方法、そして測定値の見方についてお伝えしました。
寄付させていただいたガイガーカウンター(*註1)は、硬β・γ・X線の線量を測るもので(核種は特定不可)、食品に含まれる放射性物質を測定するためのトレイも付属しています。
簡易測定ではありますが、毎日続ければ、変動はある程度把握できます。
牛乳を測る方法について説明している時、隣で聴いていた友人のわねは、涙ぐんでいました。
二人のお子さんの母親でもある彼女は、「毎日牛乳の汚染を心配するママたちの気持ちを考えたら、何だか… ごめんね、私涙もろいから」と言いながら、また流れる涙をタオルハンカチで必死におさえました。

一通り話が終わると、横田さんは椅子から立ち上がりました。
「さっそく測ってみましょう」。
機器のスイッチを入れると、彼はまず足早に一番広いプレイルームに向かいます。
子どもの頭の高さに合わせ、部屋の中央、角、窓辺、家具の近くなど数カ所で測った値は、いずれも0.05~0.08μSv/h程度でした。
次に、先ほどまで子どもたちがお昼寝をしていた部屋へ。
開口部が大きい部屋は、プレイルームよりは若干線量が高めでしたが、いずれも0.1μSv/h以下にとどまっています。
続いて屋外の計測。やはりさほど高い値は出ません。
建物の周囲は専用駐車場になっており、アスファルトで舗装され、かなりの勾配がついています。
その頂に児童園が建っているので、雨水などはすべて建物から遠ざかる方向に流れていく格好になっています。
ただ、駐車場脇の側溝にしゃがみこんで計測すると、予想通り若干高い値が出ました(最高値は0,1μSv/h台)。
「高いな」と横田さん。
「測定場所を増やしていく必要がありますね」と私は応じました。

部屋に戻って来た横田さんを、スタッフが見つめています。
誰も「どうだった?」と口に出しては尋ねません。
でも、彼の答えを待つ真剣な眼差しが、ことば以上に雄弁に、彼女たち(スタッフの大半は女性です)の不安を物語っていました。
「まあ、大丈夫そうだよ、とりあえずは」という横田さんのことばに、ぴんと張りつめた空気が少しずつほどけていくようでした。
児童園はどの部屋も掃除が行き届き、フローリングも美しく磨き上げられています。
それが線量の低さにつながっている可能性もあるのでではないか、と私は言い添えました。
「拭き掃除がいいんですね」
「部屋の隅はとくに重点的にした方がいいかな」
スタッフの方々も皆さん真剣です。
私も、できる限り役立つ情報を提供したいと思うのですが、除染作業には多くの困難が伴います。
差し当たり、以下のことを伝えました。

①できれば使い捨ての雑巾を使い、掃除のときはマスクをつけること。
②使用後はとりあえずビニール袋などに密封し、子どもたちから遠ざけて一時保管すること。
③そのまま一般ゴミに出すと軽装の収集作業員・処理作業員の被曝に繋がってしまうこと。
④ゴミが焼却処分されれば、再び空中に汚染が放出されてしまうこと。
⑤従って、使い捨て雑巾は水洗いしてから捨てた方がが望ましいこと。
⑥それでも下水に汚染を流し込む結果にはなってしまうが、下水処理場の汚泥問題はすでに顕在化しており、一般ゴミの収集よりはチェックの目が届く可能性が高いと考えられること(これは予想というより、切実な希望です)。
⑦最終的には、個人や中小事業所による自助努力には限界があり、適切な除染のためには処理の各段階で行政によるサポートが必要となること。


説明しながら、こみ上げてくる感情を、私は必死で堪えていました。
それが哀しみなのか、怒りなのか、苛立ちなのか、無力感なのか…自分でも見きわめがつきませんでした。
自分が話していることが、まったく無意味ではないにせよ、いっときの気休めに過ぎない部分が多いことを、私は自覚せざるをえませんでした。
なぜ除染が必要な場所に、子どもたちがいるのか?
なせ支援活動でヘトヘトなスタッフの方々が、その上にリスクを冒して除染に携わらなければならないのか?
なぜこんなに大切な情報を、行政から得ることができないのか?
何もかもに納得がいかぬまま、私はことばを絞り出すように話し続けました。

スタッフの方々は、子どもたちがお散歩に行く公園の汚染を、とりわけ心配しておられました。
「公園も道も、とにかくいろんな所を測ってみます」と横田さんは約束してくれました。
彼ら/彼女らと話しているうちに、ふとある本の一節が浮かんできました。

「叩けよ。さらば開かれん」とかいう文句が聖書にあるそうですが、私たちは最後まであらゆる門を叩きつづけました。(中略)どの国家にせよ、国家は私たちに味方しない。国家の門をいくら叩いても返事がないのですから、そういうことがわかってきました。門を叩いて返事があったのは、個人であり、個人たちでした。(*註2)

いま私の目の前にいる、真摯な眼差しを持つ、若い人々。
他の何を信じられなくても、信じられるものがあるとしたら、人しかない。
心折れそうになるたび、きっと今日という日のことを、私は想い出すんだろうな。
夏の陽射しが差し込むプレイルームで立ち話をしながら、そんなふうに感じました。

(つづく)

*註1: 機種名はPripyat Beta-gamma radiation RKS-20.03。ウクライナBTK 社(現 ECOTEST社)製。

*註2: ながたなにがし「「句会」についての個人的まとめ」『となりに脱走兵がいた時代』所収。
ながたさんは、ベトナム戦争当時、米軍から脱走してきた兵士たちを支援するJATEC(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)の中心メンバーでした。脱走兵たちは日本各地の個人の家庭などに匿われ、当初はソビエト連邦(当時)を経由するルートを利用してスウェーデン等に亡命していました。しかし、後にソビエト連邦は、自国に有利な情報をもたらす可能性のあるパイロット以外の脱走兵の受け入れを拒否。出口がないまま脱走兵を受け入れ続け、匿い続ける苦しい時期を支えたのは、日本の無名の一般市民たちの協力でした。
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