スポンサーサイト

--.--.--.--.--:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

足裏の声

2012.06.27.Wed.01:51
 ある日、玄関先に現れた女子中学生は、見るからに落ち込んだ様子でした。「死にたいって、君のどこが言ってるんだい。ここかい?」と頭を指さすと、こくりとうなずきます。私はとっさに言葉をついでいました。

 でも、君が死ねば頭だけじゃなく、その手も足もぜんぶ死ぬ。まず手をひらいて相談しなきゃ。君はふだんは見えない足の裏で支えられて立っている。足の裏をよく洗って相談してみなさい。

 数カ月後、彼女からの手紙には大きく足の裏の線が描かれ、「足の裏の声が聞こえてくるまで、歩くことにしました」と書かれてありました。


上は、作家・高史明氏が、6年前に朝日新聞に寄稿した文章の一節です(全文はこちらで読むことができます。)
当時はまだ、グラフィックデザインの仕事をしていた私。
その翌年に一念発起して靴づくりを目指すとは想像もしていなかった時期なのに、なぜこの記事を切り抜き手許に残したのか、いまとなっては記憶がさだかではありません。

高史明氏は、戦時下に生をうけた在日朝鮮人二世としての自身の半生を綴った『生きることの意味ーある少年のおいたち』を1974年に上梓し、同書は翌年日本児童文学者協会賞を受賞しました。
しかし同年、彼の息子が12歳という若さで投身自殺します。
妻とともに、亡き息子が残した詩を編んだ(岡真史『ぼくは12歳』筑摩書房 1976年)後、高氏は長く息子の死と詩に向き合い続けます。
そして、身を焼くような苦悶のなかで『歎異抄』に出逢い、親鸞の教えに帰依することとなります。

私自身は、信仰を持つ人間ではありません。
ただ、ひょっとすると、当時「死」の観念に惹き付けられていた一人の若い友人に伝えたいメッセージを、この記事から読み取ったのかもしれません。
繊細で鋭敏な感性の持ち主だからこそ感じる、哀しみ。
それは、12歳の少年が残したガラスのナイフのような詩と、ぴったりと重なり合うようでした。
共感をおぼえつつも、思いとどまってほしいと切実に願い続けた日々が、そこにはありました。

死にたいと思い、たとえば手首を切ってみる——その瞬間から、身体は文字通り全身で傷を治そうと動きます。
身体全体が生きる方向へ必死にもがいているときに、心=脳だけが、その営みを封じる決定を一方的にしてしまって、ホントにいいの?
「自殺」を「自分を殺す」と読むか「自分に殺される」と読むかで、印象はだいぶ変わります。

「足裏の声」を聴く。
喧噪から離れ、鼓動に耳をそばだて、皮膚を通して血流の温もりに触れ、呼吸のリズムを静かに味わう。
そういう時間をほんのひととき持つことができるなら、私たちはもう少しゆっくりと人生を歩んでいけるのではないか、そんな気がします。

いま、眠れぬ夜を過ごしているあなたへ…

宝石紫セノビージャ・ハポンの公式サイトはこちら
スポンサーサイト
コメント
1 ■無題
涙がでました。
全文読んでみようかな☆
素敵な言葉を教えていただいてありがとうございます^^
2 ■オトナだからこそ…
この文章、本来はいじめを受けている子どもたちに向けたメッセージなんです。でも、いま読むからこそ、実感として胸に響くのかもしれませんね。

管理者のみに表示
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。