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消費税0円+まとめ買い応援キャンペーン延長のお知らせ

2011.07.31.Sun.23:03
今日はいつもの脱線系はちょっとお休みして、「公式ブログ」らしいお知らせです。

お一人でも、お友だち同士でもOKドキドキ
まとめ買い応援キャンペーン
ご好評につき、期間延長!



セノビージャ・ハポンでは、7月15~31日まで、
フィッティングルームご来店のお客さまに、
消費税0円+ご購入足数に応じた割引サービスを
おこなっています。

この間、とくに東京以外にお住まいのお客さまから、
「新人公演の際に東京に行くので、
フィッティングをしたい」というお問い合わせを
いただいております。

このため、8月20日まで実施期間を延長することに
急遽決定いたしました。


セノビージャ・ハポンでは、通常定期セールはおこなわず、またまとめ買い割引もお客さまご本人のみに限定させていただいておりますが、本キャンペーン期間中にかぎり、お友だち同士でのまとめ買いにも割引を適用させていただきます。

セノビージャ・ハポン公式サイト「消費税0円+まとめ買い応援キャンペーン」の詳細はこちら。

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クエルポ・コントロール

2011.07.30.Sat.19:07
「はい、お腹に力を込めて~」
「もっとクエルポ(体幹)を使って~」
「動きが硬いよ。力まないで~」

フラメンコの先生からご指導を受け、でもどうしたらいいかイマイチよくわからない、という練習生の方はとても多いようです。
今日ご来店されたお客さまも、そんな疑問を抱えておられたお一人。
力を抜けって言われても、いつのまにか力んでしまう。
それでいて、力を込めなきゃいけない…って、いったいどういうコト?

今日お試しいただいたのは、まず「アーチテーピング」、
そして「ナチュラルに立つ練習」と「重心移動練習」です。
実は、クエルポと末端の足裏(や顎関節)は、深い関係にあります。
人間の運動の多くは、身体の中心部と末梢部のテンションをコントロールすることから生まれるのです。
このため、お腹だけをとりだして意識しようと思っても、なかなかうまくいきません。
しかも、深層にある体幹を支える筋群(腸腰筋群、脊柱起立筋群など)は、おそらく身体の中でもっとも意識しにくい場所のひとつなのです。

では、どうしたら体幹コントロールができるようになるのでしょうか?
その第一歩は、いまエネルギーが身体のどこをどのように動いているかを意識すること。
そして、その意識を研ぎすます上で、末梢部の感覚センサーは重要な役割を果たします。
アーチをととのえる(あるいは噛み合わせをととのえる)ことは、実は全身のバランスを維持するために不可欠なのです。

今日のお客さまには、テーピング施術の後、癖(股関節・膝関節の内転と足の回内、背中をそらせすぎる立ち癖など)を修正するため数種類のエクササイズにトライしていただき、そのあと実際に鏡の前でウォーキング練習をしました。
だいぶよくなったかな、と思った時、突然玄関のチャイムが「ピンポーン」。
フィッティングルームは個人住宅なので、ときどき予想外の訪問者があったりします(今日は、東京ガスの宣伝の方でした)。
あ、いま間に合ってまーす、ゴメンナサイ!とお断りし、踵を返して再びお客さまのもとへ…

¡¡¡えええ!!! すんごくカッコ良くなってる…
はっきり言って、数分前とは別人のようです。

ご自身も、鏡の中の歩き姿に「おおお~」という感じです。
「頭や胸は全然ブレないのに、お腹が使えてる。
クエルポを感じるってこういうことなんですねー。
ああ、でもまた抜けちゃうかも…この感じ、忘れたくないなあ」。

そう、お客さまがおっしゃる通り、一度コツをつかんだと思っても抜けてしまうことってありますよね。
これは実は、身体単独の問題ではなく、身体と脳のコミュニケーションの問題です。
例えていうなら、脳に間違ったプログラムが書き込まれていると、捻れているのに真っすぐだと思い込んだり、シンメトリーだと思っているのに位置がずれている、といったことが起こります。
この間違ったプログラムのバグを修正するのが、実はフットケアのキモ。
プログラムの書き換えが始まるのは、早い人で3ヶ月目から。
書き換えが一通り完了するまでには、少なくとも半年ほどかかります。
セノビージャ・ハポンでは、フットケアによる身体補正の基本期間を半年と設定していますが、それは単に足のケアだけではなく、「脳のプログラム」を修正しようとしているからです。
いったん身体と脳のコミュニケーション回路ができてしまうと、あとはずっと楽になります。
気を抜くと昔の悪い癖が出ることはちょいちょいありますが、気がついたら修正、の繰り返しで定着していくのです。

この感覚は、ひょっとすると語学の習得に似ているかもしれません。
何気なく流れてくるスペイン語が、あれ? だいぶ聞き取れるようになってきたな…という感じが3ヶ月目。
簡単な日常会話なら話せる、という状態になるまで半年、みたいな感じかな。
…って、語学が苦手な私が言っても、説得力ゼロだなあハートブレイク

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朝の儀式その2――カホン

2011.07.27.Wed.22:30
夜行性体質の私にとって、朝起きるのはちょっと苦痛。
フリーでデザイナーをしていた時期が長かったせいでしょうか。
当時は朝方ベッドに入り、昼に起き出すという、超不規則な生活でした。
その後早朝に起きる仕事なども経験し、その頃はうってかわって朝5時半起床。これがけっこうキツかったー…。
枕元には、携帯電話のアラーム+大音量ベル音が鳴るゴツい目覚まし時計(その名も「RAIDEN」)の二台態勢。
加えて、30分後の6時に、パートナーからモーニングコールをかけてもらうという保険つき。
さらにさらに、「朝の目覚めの儀式」を一通りやらないと、どうにもエンジンがかからないのです。

儀式その1は、以前も書きましたが「コーヒーを入れること」。
これはもう半ば自動化されていて、ベッドメイクをすませたら、洗顔や着替えの前にまずキッチンに直行。
ほとんどモウロウとした意識でドリッパーをセットするのですが、コーヒーの馥郁とした香りが部屋中に漂いはじめるころ、少しずつ目が覚めてきます。

もうひとつは、「カホン(またはパルマ)を叩くこと」。
朝っぱらからなんと近所迷惑な…汗 と後ろめたさをおぼえつつ、仕事をはじめる直前に一曲選んで叩くのが基本(一応カホンにはタオルを噛ませ、足でミュートして音響を抑えます)。
たいていBuleríasやRumba、Tangosなど、比較的短くてノリのいい曲が多く、時にはフラメンコ以外の音楽(ラテンが多いですが)になることもあります。

Gerardo NúñezのBuleríasなら、叩いているうちにノッてきてご近所への配慮はどこかにふっとび(あああ、すみません、ご近所のみなさま!)、一曲終わると「よっしゃ、今日もいっちょやったるで!!」という気分になります(←なぜに関西弁?)。
Raya RealのRumba Jitanaから一曲セレクトすれば、心地よいリズムに揺られてゴキゲンな一日を過ごせそう。
Maria Vargasの小粋なTangos del Piyayo(伴奏は若き日のPaco de Lucíaですね)なら、ちょっと心にゆとりや遊びが生まれる気がします。
どういう基準による選曲なのか、自分でもまったく理解不能。
その時々の気分や願望が投影しているのかな、とも思いますが、朝の私に「分析」を求めるのは無茶というもの。
ひたすら、テンションと体温(実は低体温症なもので)を上げるために費やされる、数分間のパーカッションごっこです。

ただ、選曲を誤るとどえらい目に遭うことも。
早朝靴修理の仕事をしていた頃のこと、ある雨の朝、敬愛する師匠・染谷ひろしさんのTarantosをその日の一曲に選びました。
タイトルは、「雨」。まさにその日の空気に、ぴったりハマりました。
が… この曲、シトシト雨からだんだんと激しく、モチーフが変化していくんですよね。
カホンを叩いているうちに、
あ~、今日は外出したくない!!このまま家に引きこもりたいっ!!
という気分が高じてしまい、出勤時間を大幅にオーバー。
結局電車を二本逃し、遅刻ギリギリで職場に滑り込みました。
当時は、駅ナカ靴修理店を一人でまかされていた私。
あやうくお店のシャッターを開け損なうところでした(←これ、実は大クレームになるんです)。
あぶないあぶない…

この時以来「朝の儀式用MD」から、Soleares、Seguiriyas、Tarantosを追放したのは言うまでもありません。
いや、別にフラメンコが悪いのではなく、ナマケモノの自分が悪いのですが…

foto : 私の「愛器」、折りたたみ用カホンです。穴の形は、私の綽名であるネコの形にくり抜いてもらいました。私が描いた下絵通りにヒゲまで忠実に再現してくださった、アトリエKENさんの遊びゴコロに脱帽、そして感謝!Mario CortesやSchlagwerkのカホンも、もちろんいいなあと思いますが、座面が低くて手の当たりがやさしいこのカホンは、私のお気に入りです。音質は洗練されていてデリケート。生音なのに、深めにエフェクトをかけたみたいな印象です。

$Senovilla Japon(セノビージャ・ハポン)公式ブログ-cajon1


$Senovilla Japon(セノビージャ・ハポン)公式ブログ-cajon2

モートン病

2011.07.25.Mon.18:55
*以下、テキストが紫色の部分は医学的説明です。不要な方は読み飛ばしてください。
............................................................................................................

先日ご来店いただいたお客さまは、やや深刻なトラブルをお持ちの方でした。
フラメンコのキャリアは20年以上に及びますが、数年前に「モートン病」(*註1)を発症。
通院治療のご経験もあり、大好きなフラメンコも一時期中断を余儀なくされたとのこと。

モートン病(Morton neuroma)。
一般にはなじみが薄いかもしれませんが、靴や足に携わる者にとってはポピュラーな絞扼性神経障害(=神経が締めつけられて起こるトラブル)です。
1876年にオーストリアのトーマス・G・モートンが症例報告を行ったことから、この名がつきました。
靴文化の発信地である欧米では、100年以上前からこのような足トラブルが重大な問題として認識されていたのですね。

モートン病は、足裏の第三・第四中足骨骨頭(足の中ゆびと薬ゆびのつけ根)付近で発症することが多く(ほかの足趾間で発生することもありますが)、刺すような、あるいは焼けるような痛みや、締めつけられるようなしびれが特徴です。
初期の段階では、靴を履くと痛みが生じますが、素足になると痛みはなくなります。
進行すると、靴を脱いでも激痛が襲います(ただし、アーチ補正機能のある靴の場合、靴を履いた方が痛みが軽減する場合もあります)。
「足から頭の先まで貫くような痛み」と表現する方もおられます。

原因としては、
・爪先立ちやしゃがみ姿勢での長時間作業
・前足部に負担のかかるハイヒール(とくに爪先が細く尖った「ポインテッドトウ」は要注意)や足に合わない靴
・硬い地面や床の上での長時間の歩行や運動
・加齢による靭帯のゆるみや筋力低下
・体重の増加
…などなど、ケース別にさまざまな要因が考えられます。
フラメンコは靴のタコンも高く、床も硬く、長時間練習される方も多いですから、モートン病に関してはややハイリスクと言うことができますね。

ただし、いずれの場合でも、足のアーチの沈下により、中足骨骨頭(足ゆびの付け根、プランタの位置)付近に過度の足底圧がかかることが、直接的な引き金となります。
とくに足裏の第三趾(中ゆび)と第四趾(薬ゆび)の間の付け根部分は、もともと神経の通り道が狭く、過度な負荷がかかったときに逃げ場がないため、モートン病の多発部位となっています。
一般には中高年以上の女性に多いとされますが、若い方や男性でも足を酷使していれば発症のリスクは高くなります(*註2)。
ひょっとしたら…?と思われる方は、まず足トラブル専門の外来窓口がある病院を受診されることをお勧めします。

一方で、モートン病の痛みは、日常生活上の諸注意や靴選び等によりかなり軽減します。
先日ご来店されたお客さまは、痛みへの恐怖心から、ジャストサイズよりも少し大きめの靴を履きつづけておられました。
試し履きで私が差し出した靴をご覧になって、最初は「そんなに細い靴は絶対ムリムリ! 履いた瞬間に痛くなりそう」と思われたそうです。
実際にお履きいただき、「えっ、不思議! どうして痛くないのかしら? 私の足ってこんなに細かったの?」と驚いておられました。
足幅の細い靴で「脇を固める」と、横アーチをサイドからサポートすることになり、それだけで痛みが軽減するケースは少なくありません(もちろんただ細いだけではダメで、足趾を締めつけないゆとりも必要です)。
さらに靴のなかに調整を施すことで、より積極的に沈下したアーチを押し上げる方法もあります。
セノビージャ・ハポンでは、既成のパッドによる調整のほか、ドイツ製の医療用シリコン(シリコンオーテーゼ)を用いてフルオーダーの調整を施すメニューもご用意しています(*註3)。
大好きなフラメンコを諦めなくてすむ、と嬉しそうにお帰りになったお客さまの笑顔は、フィッティングさせていただいた私まで幸せな気分にしてくれました。

フラメンコは、嘘をつきません。
身体が痛かったり、辛かったりすれば、必ず踊りにも現れます。
違和感を感じたら、それは身体からのメッセージ。
トラブルが大きくなる前に、ぜひ一度フィッティングルームを訪ねていただけると嬉しいです。

............................................................................................................

*註1:足趾(ゆび)の過伸展(爪先立ちの状態)により総底足底神経が引っ張られたり、横アーチや内側縦アーチが沈下することにより、中足骨骨頭に過度の足底圧がかかると、その上を横切る深横中足靭帯に当たって圧迫を生じます。足趾神経は深横中足靭帯と中足骨間に挟まれた繊細な感覚神経で、慢性の機械的刺激を受けると神経腫(良性腫瘍)を形成し、滑液包が炎症を起こします。これが、モートン病に特有の放散痛・疼痛を引き起こします。
第三趾と第四趾の間で多発するのは、この部位に内側足底神経と外側足底神経の交差枝があり、他の足趾間よりも足趾神経の可動域が少ないためです。
また、とりわけ最近は扁平足・踵骨外反等により外側縦アーチが沈下し、立位の際に第五趾(小ゆび)側に重心が偏る方が増えており、第三・第四中足骨骨頭の圧迫を助長しているケースも散見されます。


*註2:たとえば、第二次世界大戦中に陸軍歩兵が悩まされた「行軍腫」もモートン病の一種と言われます。

*註3:既製品による調整は、靴ご購入後3ヶ月以内は無料で行います。
シリコンオーテーゼによる調整の場合は、完全なフルオーダーのため別料金ですが(9,450円/1足)、ご自身の足にテーピングで理想的なアーチを作り上げ、それを医療用シリコンに転写して靴の中に再現するため、かなりシビアなトラブルをお持ちの場合でも違和感なくお履きいただけるお勧めの方法です。

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パロサント(Palo Santo)=聖なる樹

2011.07.22.Fri.23:35
最近すっかり本来のブログテーマからはずれまくっていたので、今日はフラメンコ靴のタコン(ヒール)のお話を…

セノビージャのシューズの最大の特徴は、なんと言ってもタコンの材料「パロサント」でしょう。
パロサントは、南米原産の希少な高級木材。
最高級のギターやパリージョ(カスタネット)にも用いられ、美しい木目と、硬く緻密な木質、そしてそこから生み出される澄み切った華やかな音色が特徴です。
スペイン・セノビージャの社長ミゲルは、さまざまな困難と障害を克服して、このパロサントをタコンに成形する方法を編み出しました。

なにが困難かというと…
①パロサントは、その希少さゆえに、入手そのものが難しいのです。
セノビージャの会社を立ち上げる前は、ギターなどの楽器に使用する木材を扱う「材木商」の仕事をしていたミゲル。
だからこそ、厳しい国際基準をクリアし、パロサントを入手する資格を持っているのです。
タコンパロサントの誕生は、彼のフラメンコ音楽への愛なくしては考えられなかったでしょう。

②パロサントはその硬度ゆえに、通常の木材加工用マシンでは成形できません。
マシンの刃が木の強靭さに負けて、ボロボロになってしまうのです。
タコンの形に作り上げていく工程の大半は、熟練した職人がひとつひとつ手作業で仕上げていきます(下の動画をご覧ください)。
このため大量生産ができず、言いたくないけどお値段もとっても高い!
でも、さまざまな素材を試した結果、やはりパロサントに替わるものは見つかりませんでした。
音色の美しさは、やはりことばではなかなかお伝えできません。
百読は一聴にしかず。
セノビージャ・ハポンのフィッティングルームにはリノリウム貼りの部屋もありますので、機会がありましたら、どうぞご自身の足と耳でお確かめください。

③手作業で仕上げた天然素材のタコンは、よく見るとひとつひとつ個性があります。
でも、靴は左右で1セットのため、必ず同じものが2つ必要。
このため靴職人は、色合いや木目の入り具合、微妙なサイズの違いなど、それぞれの個性を見極めてペアのタコンを選び、さらに靴に合わせて微調整をおこなっています。
これは量産体制の靴工場では決して見ることのできない工程で、高度なアライメント(面的整合性)調整技術が要求されます。
マドリッドの工房で、工場長ボルテルからこの作業を見せてもらったときは、「これにくらべたら、量産品はプラモデルを作るようなものだなー」と思ったものです。
こうしてハンドメイドでていねいに仕上げられた靴は、踊り手の心を奏でる楽器になるのですね。

先日ミゲルから、セノビージャのキャッチコピーについて、りえ天と私に相談がありました。
(ちなみにこういう場合、普段はマドリッドにいるミゲルがセビージャのりえ天の店を訪れ、そこからSkypeで日本に連絡をとる、という形になります。本当に世界は狭くなったものです…)
「セノビージャのキャッチコピーに、Arte en Tus Pies ってどうかな?」とミゲル。
他にもいくつか候補があったのですが、りえ天も私も、これしかないじゃん!と即答しました。

あなたの足もとにアルテ(芸術)を。

自画自賛ならぬ自社自賛ですが、パロサントの特徴をあますところなく伝える、なかなか良いコピーだと思います。
ミゲルったら、ああ見えて(失礼!)なかなかの詩人だったんだなあ…



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見えるものと見えないもの 4/4

2011.07.19.Tue.01:06
ホテルでチェックインを済ませた後、再び三人で落ち合い、居酒屋へ。
何はさておき、生ビールで乾杯!
続いて、自己紹介を兼ねた赤裸裸トーク。
特に友人のわねは、ブログを見ていただければ判るとおり、実にドラマチックかつドラスティックな半生を送ってきたツワモノ。
カウンセラーらしい心遣いは随所に散りばめられているものの、イマドキの若人にはちょっと過激すぎる辛口告白に、横田さんは「あー、オレなんてまだまだヒヨッコですねえ!」とぶっとんでいました。
そんなわねの粋な計らいですっかり打ち解けた三人は、ここには書けないディープな自己紹介(私が一番薄味だったかも)を含め、深夜まで盛り上がりました。

とりわけ印象に残ったのは、横田さんが支援活動にまつわる悩みや迷いについて、語ってくださったことばです。
「ブログに、「救援物資をお送りいただき本当にありがとうございます!」って書くでしょ。でも、自分がもらってるわけじゃないのに、ありがとうって何かおかしくないか?って考え込んじゃった時期があったんですよね。だけど原点に戻ってみたら、苦しんでいる被災者の人たちを見て、この人たちを何とか支えたいって思う自分の気持ちを呼びかけて、それに応じてくれた人にありがとうっていうのは、うん、おかしくないな、って気がついて。それからは素直に、ありがとうございますって書けるようになりました」。
小さな違和感をスルーせず、ていねいに向き合おうとする誠実さに、私は感銘を受けました。
思えば震災直後、寄付の送り先を探していた私は、日本赤十字や赤い羽根共同募金会、各県災害対策本部など、さまざまな組織やブループを比較検討していました。
しかし、機動的でなかったり、現地のニーズに合わなかったり、物資が末端まで行き届いていなかったり、被災者個人の支援に直接繋がっていなかったり…という実情を勘案し、結局NPO法人ですらない横田さんたちの「①Action Project」を選択するに至った経緯があったのでした。
この選択はやはり間違っていなかった、と、このとき改めて思いました。

翌日仕事を控えているわねは、最終の新幹線で慌ただしく東京に戻っていきました。
ほろ酔いの横田さんは、「次、行きましょう」と、ご自身が以前行きつけだったお店に誘ってくださいました。
イタリアンバルとカフェバーが合体したような、お洒落なお店でした。
馴染みの店長さんは不在でしたが、横田さんと顔見知りの店員Iさんが迎えてくれました。
夜が更けて他のお客さんが帰ってしまうと、お店は貸し切りになりました。
Iさんは、今年結婚し、先月赤ちゃんが生まれたばかりとのこと。
先月! …どう反応していいのか、一瞬ことばに詰まりました。
横田さんはIさんに、「この人はね、東京から福島を救いにに来たんだよ!」と意味不明な紹介をしてくれ、それから今日の一連の出来事を説明しはじめました。
さらに二人は、他のお客さんがいるときには決して口にできないであろう原発事故後のあれこれについて語り続けました。
時に笑いを交え、時に苦渋の表情を浮かべながら。
だいぶお酒がまわってきたかな…と思ったころ、横田さんはグラスを両手で握りしめ、唇をかみしめたあと、うめくように呟きました。
「ゲンパツ、が、…なあ……」

彼らの原発事故への認識が甘すぎるのでは、などと思っていた自分の心臓が撃ち抜かれる思いでした。
たとえ情報が不足していても、正確な報道がなくても、危機感は肌で、身体で、みな感じているのです。
横田さんも、Iさんも、みんなギリギリで耐えているんだ。
今日を生き抜くために、必死で闘っているんだ。
私は明日、東京に帰ってしまう。帰る場所がある。
東京だって決して安全とは言えないけれど、でも少なくともこことは全然違う。
何もかもが、桁違いに違う。
そのことが、とてつもなく理不尽で、アンフェアで、赦しがたい悪のように思えました。

ホテルまで送ってくださった横田さんに、別れ際、私はこう伝えました。
私がマスクをして歩くのは、自分を護るため、だけじゃないの。
もしマスクをつけたいと思いつつためらっている人がいたら、勇気を出してほしいから、その人へのメッセージをこめて、マスクをしているの。
明日から、あなたにもマスクをしてほしい。
本当は、若い人にはここにいてほしくないけど、逃げてほしいけど、でももしここにとどまるなら、少なくともマスクはつけてほしい、と。
「そうだったんですね… わかりました。そうします」。
横田さんは、そう答えてくれました。

部屋に戻ると、あらかじめ入口に用意していたファスナーつきビニール袋に靴と裏返しに脱いだ衣類を密封し、マスクを水で洗った後ポリ袋に放り込んで捨て、手洗いうがいをしてシャワーを浴びました。
髪を洗っているとき、昼間見かけた自転車の少女の姿が、浮かんできました。
続いて、若い母親に抱かれた赤ん坊が。中学生らしい男の子たちのやんちゃな笑顔が。居酒屋の若い店員さんや、来店していた若いカップルたちが…。
やわらかく、小さく、愛おしい、すべてのもの。
平穏な生活。ささやかな喜び。未来への希望。
それらを、目に見えない幾千幾万の刃が刺し貫いていくイメージに、私はもう耐えられなくなりました。

シャワーを浴びている間中ずっと、私は声を上げずに泣き続けました。

見えるものと見えないもの 3/4

2011.07.17.Sun.14:13
児童園を後にした私たちは、横田さんの車で仙台市から福島市へと移動しました。
座席後部には、翌日被災地に届ける予定の車椅子が積まれていました。

途中、甚大な津波被害を受けた名取市を経由していきました。
海沿いの道はガレキの多くがすでに片付けられ、道路脇はほとんど更地になっていました。
根こそぎ流される被害を免れた民家が更地の中に点在し、修復された家々の窓から生活の気配が垣間見えます。
震災後4ヶ月でここまできれいに…と思った矢先、道路脇に多くの漁船がオブジェのように積み重なる光景が目に飛び込んできました。
やがて、撤去されたガレキの山が続きます。
いまにも崩落しそうな建物が、辛うじて形を保っている地帯もたくさんありました。
ひしゃげた鉄骨。ぐちゃぐちゃに壊れた窓枠。まるで、映画のセットのようでした。
「この辺はかなりガレキの撤去が進んでいて、車でご案内できるレベルなんですけど、石巻はまだまだですね。僕も物資を届けにいくんだけど、ガレキの山の高さがハンパないです」。

車内の放射線量は、県境に近づくと、目に見えて上がりはじめました。
片側は阿武隈川を臨み、もう片側の斜面には緑が生い茂り、ドライブには絶好のロケーション。
そんな場所で、明らかに周囲より倍以上線量が高い、いわば「ミニホットスポット」と見られる地点も、複数見つかりました。
線量は、車内でも1.0μSv/hを超えました。
国見ICを越え飯坂に向かう道にそれらは点在し、その多くが起伏の多い路面の、谷ではなく頂の部分に当たりました。
やがて激しい驟雨が車を襲い、線量はさらに急上昇。
ふと横を見ると、横田さんが、ああ…、とうなだれています。
「いやー、実は昨日洗車したばっかなんですよね…」。
聞けば、「東京からお客さんが来る! しかも女性二名。どうしよう!」というわけで、急遽菓子折を用意し、車を洗い…いろいろご準備くださったというのです。
ああ、気を遣わせてしまったんだな、と申し訳なく思いましたが、横田さんの慌てっぷりがおかしくて、思わず吹き出してしまいました。
「ごめんねー、来たのがこんな私たちで」と私。
「だって、私たち全然お客さんじゃないのよ」とことばを重ねるわね。
「いやいや、こちらこそ。まあバレてるとは思うけど、僕ら皆こんなフツーな人たちじゃないですか。お二人の想像を裏切ったらどうしようと思って、ホント焦って準備して…。なのに、雨まで降っちゃうかあって、ねえ…」。
放射能雨がボンネットを激しく打ちつける車内で、私たちは大いに喋り、大いに笑いました。
雨は10分ほど続きましたが、やがて夏の陽射しが戻ってきました。

JR福島駅の近くのビジネスホテルに、私は宿をとっていました。
駅前商店街が近づくにつれ、通行人の数はどんどん増えてきました。
「誰もマスクしてないでしょ」と横田さん。
制服を着たポニーテールの少女が、自転車で車道の脇をすり抜けていきます。
風をはらんだ白いブラウス、艶やかな長い髪。
あのブラウスは毎日洗濯できるけど、スカートは夏休みまでクリーニングしないんだろうな…そう思いながら、走り去る少女の姿を目で追いました。
ベビーカーを押して歩く若い母親。集団で、何やら楽しげにじゃれ合う少年たち。ゆっくりとした足どりで、一歩一歩かみしめるように歩くお年寄り。…
目に入るすべてが、あまりにもありふれた日常のひとこまでした。
たったひとつ違うこと、それは、ガイガーカウンターが告げる、信じられないほど高い数値だけでした。

わねと私は、マスクをつけ、長袖の羽織ものを着て、車から降りる身支度を整えました。
その最小限の準備すら違和感をおぼえるほど、街には平穏な日常の風景が広がっています。
「福島駅の…どっち口だったかなあ、線量が高いらしいです」と言う横田さんご自身も、マスクは持参していません。
予備のマスクを常に携帯している私は、彼にもマスクを差し出そうかと一瞬ためらいました。
そして、喉まで出かかったことばを飲み込んで、車を降りました。

実はこれまでのやりとりの中で、被曝のリスクに対する横田さんと自分との温度差を、私はしばしば感じていました。
その理由の一端は、やはり日々接する情報の質的な差異にあるのではないかと思います。
震災後彼のPCが故障し、いまもネットに接続できないという事実を知ったのは、つい最近でした。
ブログでの発信は携帯電話でもできますが、多くの情報を検索・閲覧・検証するには限界があるでしょう。
今回の旅で、私は彼らに目を通してほしい情報をプリントアウトして持参し、手渡しました。
そして、私自身の危惧も伝えました。
それらの情報を手にした彼らが、今後何をどう判断し行動するのか。
それは、彼らに委ねるほかありません。

それでも車から降りた私は、ほとんど打ちひしがれるような思いでした。
こんな危険な場所で、こんな軽装でいちゃいけない。
みなさん、すぐに逃げてください。
大声で叫び出したい気持ちを堪えながら、私はホテルへの道を急ぎました。

(つづく)

見えるものと見えないもの 2/4

2011.07.16.Sat.01:04
横田さんの携帯電話には、相変わらずひっきりなしにいろんな連絡が入ってきます。
忙しい業務の合間を縫ってのミーティングとなりました。

まず私から放射能の基礎的な概念説明をさせていただき、参考文献・資料とガイガーカウンターをお渡しし、空間線量や食品の測定方法、そして測定値の見方についてお伝えしました。
寄付させていただいたガイガーカウンター(*註1)は、硬β・γ・X線の線量を測るもので(核種は特定不可)、食品に含まれる放射性物質を測定するためのトレイも付属しています。
簡易測定ではありますが、毎日続ければ、変動はある程度把握できます。
牛乳を測る方法について説明している時、隣で聴いていた友人のわねは、涙ぐんでいました。
二人のお子さんの母親でもある彼女は、「毎日牛乳の汚染を心配するママたちの気持ちを考えたら、何だか… ごめんね、私涙もろいから」と言いながら、また流れる涙をタオルハンカチで必死におさえました。

一通り話が終わると、横田さんは椅子から立ち上がりました。
「さっそく測ってみましょう」。
機器のスイッチを入れると、彼はまず足早に一番広いプレイルームに向かいます。
子どもの頭の高さに合わせ、部屋の中央、角、窓辺、家具の近くなど数カ所で測った値は、いずれも0.05~0.08μSv/h程度でした。
次に、先ほどまで子どもたちがお昼寝をしていた部屋へ。
開口部が大きい部屋は、プレイルームよりは若干線量が高めでしたが、いずれも0.1μSv/h以下にとどまっています。
続いて屋外の計測。やはりさほど高い値は出ません。
建物の周囲は専用駐車場になっており、アスファルトで舗装され、かなりの勾配がついています。
その頂に児童園が建っているので、雨水などはすべて建物から遠ざかる方向に流れていく格好になっています。
ただ、駐車場脇の側溝にしゃがみこんで計測すると、予想通り若干高い値が出ました(最高値は0,1μSv/h台)。
「高いな」と横田さん。
「測定場所を増やしていく必要がありますね」と私は応じました。

部屋に戻って来た横田さんを、スタッフが見つめています。
誰も「どうだった?」と口に出しては尋ねません。
でも、彼の答えを待つ真剣な眼差しが、ことば以上に雄弁に、彼女たち(スタッフの大半は女性です)の不安を物語っていました。
「まあ、大丈夫そうだよ、とりあえずは」という横田さんのことばに、ぴんと張りつめた空気が少しずつほどけていくようでした。
児童園はどの部屋も掃除が行き届き、フローリングも美しく磨き上げられています。
それが線量の低さにつながっている可能性もあるのでではないか、と私は言い添えました。
「拭き掃除がいいんですね」
「部屋の隅はとくに重点的にした方がいいかな」
スタッフの方々も皆さん真剣です。
私も、できる限り役立つ情報を提供したいと思うのですが、除染作業には多くの困難が伴います。
差し当たり、以下のことを伝えました。

①できれば使い捨ての雑巾を使い、掃除のときはマスクをつけること。
②使用後はとりあえずビニール袋などに密封し、子どもたちから遠ざけて一時保管すること。
③そのまま一般ゴミに出すと軽装の収集作業員・処理作業員の被曝に繋がってしまうこと。
④ゴミが焼却処分されれば、再び空中に汚染が放出されてしまうこと。
⑤従って、使い捨て雑巾は水洗いしてから捨てた方がが望ましいこと。
⑥それでも下水に汚染を流し込む結果にはなってしまうが、下水処理場の汚泥問題はすでに顕在化しており、一般ゴミの収集よりはチェックの目が届く可能性が高いと考えられること(これは予想というより、切実な希望です)。
⑦最終的には、個人や中小事業所による自助努力には限界があり、適切な除染のためには処理の各段階で行政によるサポートが必要となること。


説明しながら、こみ上げてくる感情を、私は必死で堪えていました。
それが哀しみなのか、怒りなのか、苛立ちなのか、無力感なのか…自分でも見きわめがつきませんでした。
自分が話していることが、まったく無意味ではないにせよ、いっときの気休めに過ぎない部分が多いことを、私は自覚せざるをえませんでした。
なぜ除染が必要な場所に、子どもたちがいるのか?
なせ支援活動でヘトヘトなスタッフの方々が、その上にリスクを冒して除染に携わらなければならないのか?
なぜこんなに大切な情報を、行政から得ることができないのか?
何もかもに納得がいかぬまま、私はことばを絞り出すように話し続けました。

スタッフの方々は、子どもたちがお散歩に行く公園の汚染を、とりわけ心配しておられました。
「公園も道も、とにかくいろんな所を測ってみます」と横田さんは約束してくれました。
彼ら/彼女らと話しているうちに、ふとある本の一節が浮かんできました。

「叩けよ。さらば開かれん」とかいう文句が聖書にあるそうですが、私たちは最後まであらゆる門を叩きつづけました。(中略)どの国家にせよ、国家は私たちに味方しない。国家の門をいくら叩いても返事がないのですから、そういうことがわかってきました。門を叩いて返事があったのは、個人であり、個人たちでした。(*註2)

いま私の目の前にいる、真摯な眼差しを持つ、若い人々。
他の何を信じられなくても、信じられるものがあるとしたら、人しかない。
心折れそうになるたび、きっと今日という日のことを、私は想い出すんだろうな。
夏の陽射しが差し込むプレイルームで立ち話をしながら、そんなふうに感じました。

(つづく)

*註1: 機種名はPripyat Beta-gamma radiation RKS-20.03。ウクライナBTK 社(現 ECOTEST社)製。

*註2: ながたなにがし「「句会」についての個人的まとめ」『となりに脱走兵がいた時代』所収。
ながたさんは、ベトナム戦争当時、米軍から脱走してきた兵士たちを支援するJATEC(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)の中心メンバーでした。脱走兵たちは日本各地の個人の家庭などに匿われ、当初はソビエト連邦(当時)を経由するルートを利用してスウェーデン等に亡命していました。しかし、後にソビエト連邦は、自国に有利な情報をもたらす可能性のあるパイロット以外の脱走兵の受け入れを拒否。出口がないまま脱走兵を受け入れ続け、匿い続ける苦しい時期を支えたのは、日本の無名の一般市民たちの協力でした。

見えるものと見えないもの 1/4

2011.07.13.Wed.23:30
被災地を訪ねる旅から戻ってきました。
いろんな想いが身体の中を駆け巡っているのに、ことばが見つからない…そんな感じです。
アテもなく、オチもなく、思い浮かぶことをそのままに書き綴っていこうと思います。

7月11日、「東日本大震災支援①Action Project」の存在を私に教えてくれた、カウンセラーの和根崎行枝さんと東京駅で待ち合わせ。
彼女は、高校・大学時代のクラスメート(なので「さん」づけがチョー違和感。以下普段通り「わね」と略記します)。
酷暑のなか落ち合った二人は、打ち合わせていたわけでもないのに、まるでリゾート地にでも旅行するみたいなタンクトップ姿。
でも、彼女も私も、鞄の中には長袖の羽織りものをしのばせ、マスクを準備していました。

新幹線はやて167号で、仙台へ。
車中では、ずっとガイガーカウンターのスイッチを入れっ放しにしておきました。
東京駅を出るときには0.1μSv/h台を示していた線量計が、宇都宮を過ぎたあたりから、ぐんぐん上がりはじめました。
トンネルに差し掛かるといったん数値は下がり、抜けるとふたたび上昇。
窓の外には、夏の陽射しを浴びて輝く樹々と澄んだ空、そして点在する民家が遠くまで続いていました。
美しい景色でした。
福島県に入ってしばらくすると線量は1μSv/h以上になり、やがて1.5μSv/hも超えてしまいました。
計測値はγ線のみ、しかも新幹線の車内での線量です。
車窓から、福島市内にある看護学校の校舎が見えました。
あのキャンパス内の線量は…?

仙台駅に降り立つと、「東日本大震災支援①Action Project」代表の横田智史さんが車で迎えに来てくださっていました。
メールやメッセージ、電話でのやりとりを交わしてはきたものの、顔を合わせるのはこれが初めて。
私たちより一回り若い横田さんは、事前に勝手に創り上げていたイメージを1mmも裏切らない、大らかで温かい空気をまとった、笑顔の絶えない好青年でした。

仙台駅周辺の線量は、バラツキはあるものの、私の住む新宿区とさほど変わりませんでした。
私たちを乗せた車は、彼の勤務先のひとつ(横田さんは複数の児童園・保育園・学習塾等の園長・理事長をされています)であり支援活動の拠点となっている「English School Imagine Japan 仙台長町児童園」へと向かいました。
運転中、そしてこの後一日中、彼の携帯電話はひっきりなしに鳴り続け、私たちの会話はしばし中断を余儀なくされました。
業務連絡、保護者からのクレーム対応、職員への指示、 …本当に多忙な毎日を過ごしておられることが、短い移動時間の間にも充分に察せられました。
この過密なスケジュールの中で支援活動を継続していることに、頭が下がる思いでした。

児童園に着くと、子どもたちはお昼寝の真っ最中。
スタッフの方が入れ替わり立ち替わり現れ、ご挨拶。
皆さんこちらが名乗るたびにぱあっと明るい表情になり、「ああ、いつもありがとうございます」と笑顔で応えてくださいます。
日々子どもたちと接しているからなのか、それとも生まれもってのものなのか、どの方もふんわりと相手を包み込むような優しさが印象的でした。
「スタッフたちに恵まれているからこそ、この活動を続けていられるんです」。
これまでのやりとりで、横田さんからしばしば伺ったことばが、スタッフのお一人お一人の笑顔とぴったり重なり合うように感じました。
聞くところによると、当初は一人で支援活動を始め、一人でもやり抜こうと奮闘していた横田さんの姿を見て、スタッフの方々が何も言わず協力してくれたのが、事の始まりだったそうです。
もちろん勤務時間内でできることは限られており、連日サービス残業が続いているとのこと。
また、送られてくる支援物資が不足しているときには、横田さんはもちろん、スタッフの方々もそれぞれ自腹を切って物資を調達するのだとか。
このスタッフの方々の好意に甘えながら活動を継続してもいいのか、横田さんは一時期かなり迷っておられたそうです。
自分たちの力量をはるかに超える活動内容であることは、誰もが自覚しています。
それでも、とくに被災者の苦しみと直接向き合う立ち位置にいる人々は、限度を超える負担を自らに課すことになりがちです。
横田さんやスタッフの方々と実際にお会いして、そのご尽力に改めて敬服するとともに、その優しさが彼ら自身を雁字搦めにしてしまわないかという危惧もおぼえました。
そんな状況に陥らならないために、被災地から少し距離を置いた場所で、支援活動の継続を担保する仕組みが必要だと感じた次第です。

(つづく)

休業日のおしらせ

2011.07.10.Sun.11:39
7月11日~13日まで、セノビージャ・ハポンのフィッティングルームはお休みをいただきます。
この間、仙台市と福島市を訪ね、被災地の実情や原発災害の影響等を見てまいります。

セノビージャ・ハポンの公式サイトでもご案内の通り、弊社は設立直後に東北関東大震災に直面しました。
震災後今日まで、一企業として、またスタッフが個人として、「東日本大震災支援①Action Project」に支援物資を送り続けてきました。
「東日本大震災支援①Action Project」は、被災者自身が被災者支援活動を担う市民グループです。
避難所の閉鎖に伴い、少なからぬ数のNPOやボランティアが撤退しつつある現在も、より支援地域を拡げ、精力的に活動を続けています。
代表をつとめる横田智史さんは、ご自身のブログで随時必要な物資のリストを公開し、活動報告をほぼリアルタイムでアップしておられます。
被災地への輸送もすべてボランティアで行われ、自衛隊ですら入っていけないような集落や個人住宅避難所等へも、散乱するガレキをかきわけながら、実にきめ細やかに物資を届けてくださっています。

横田さんのブログを通して、また直接電話やメール・メッセージでのやりとりを通して、私は現地の実情の一端にふれることができました。
震災後数ヶ月たっても、まだ一日おにぎり2個で過ごさざるをえない方々や、お風呂に入れない方々がおられること。
支援物資が大きな避難所に偏り、既得権益や縦割行政の壁にはばまれて、物資が不足している被災者に融通できないこと…
こうした事実は、「復興」ばかりを強調するきらいのある昨今の報道では、ほとんど伝えられません。

児童園の若き園長先生でもある横田さんは、「本業に支障をきたしながら、いつまで活動を続けるべきか」「周囲の人々を巻き込んでまで活動を継続してもよいのか」といった迷いを抱えながら、一歩一歩歩んでこられたとのこと。
先日の電話では、「まだまだ苦しんでいる人がたくさんいる。それを知りながら、辞めてしまうことはできません。今後も必要とされる限り、活動を続けたい」という静かな決意を伺いました。

弊社もまた、継続的な支援のあり方について、模索を続けています。
そして、その一方でどうしても頭を離れないのは、福島第一原発の事故による影響です。
ご存知の方も多くおられると思いますが、被災地では、避難すべきか否かをめぐり、また被曝のリスクを軽減するための方法等をめぐり、さまざまな葛藤や苦悩、戸惑い、軋轢が生じています。
一方、現地で流布している情報は、率直に申し上げて私の住む首都圏以上にバイアスのかかったものが多く、テレビやラジオ、新聞以外の情報の入手が難しい立場におられる方も大勢いらっしゃいます。
現に横田さんご自身も、震災の被害によりPCが故障してネット接続できず、主要な情報源が限られているとのこと。
このように充分な情報がない中で、また事故の全貌がまったくつかめない現段階で、被災地の方々は一生を左右するような決断を迫られています。
これは、精神的にも経済的にも、個人にとっては重すぎる負担です。

弊社では、これまでも放射性物質対応マスク(N-100、N-95)などを送ってきましたが、今回新たにガイガーカウンターを購入・寄付することにしました。
被災地の方々が、ご自身の人生を選びとって前に進むためには、現状を正確に把握する手段を持つことが必要だと考えたからです。

私自身は、ガイガーカウンターを必要とするような被曝のリスクの高い地域から、少なくとも小さなお子さんや妊婦さん、ご病気や体質などによりハイリスクとされる人々、そしてこれから子を持つ若い世代の人々は避難をしてほしいと考えています。
仮に永住が難しいとしても、当面の間、相対的に線量の低い地域への一時退避は必要だと思います。
また、彼らが避難している間に、できる限りの除染(除染はそれ自体が被曝のリスクを伴いますので、公的支援とマンパワーが不可欠です)を行うことや、空間線量だけでなく、土壌、水、食品の汚染状況をより緻密にモニタリングし、内部被曝のリスクを下げる手段を講ずることも必要でしょう。
被災地の「復興」は、未来をその身体に宿している子どもたちをまもることなしには、けっしてありえない、と思っています。
これは、30年以上の間原発を巡る問題に関心を寄せ、ジャーナリストとして原発取材を行った経験も持つ、私個人の考えです。

しかし、被災地に住む一人ひとりの人生は、「べき」論で片付けることはできません。
そうするには、人はあまりにも複雑で、壊れやすく、繊細なのです。
いずれを選んでも苦しい決断だからこそ、その苦しみを少しでも分かち持つ方法はないか、そして共にこの難局を生き抜く方法はないか――その答えを求めて、今回の出張を決断しました。

答えは、簡単には見出せないかもしれません。
でも、被災者に寄り添うということは、その悩みや迷いを自らのものとして、一緒に抱えていくことだと思っています。

フラメンコ関連のイベントが目白押しのこの時期にお休みをいただくことをお詫びするとともに、皆さまのご理解を賜りますよう、お願い申し上げます。
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