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伊達輸送隊

2013.01.09.Wed.23:01


昨日(1月8日付)の『東京新聞』4面に、伊達輸送隊の記事が掲載されました。
代表者の佐々木哲治さんと ① Action Project の横田智史さんは、3.11震災直後に被災地支援活動を開始。
自衛隊ですら現地入りを断念するような壊滅的被害を受けた地域に瓦礫をどけながら分け入り、孤立集落に支援物資を届けたり、支援のネットワークからこぼれ落ちた「みなし仮設居住者」「自宅避難者」の方々からニーズを直接聞き取り、私たちに支援や寄付を呼びかけてくださいました。
弊社も「被災者自身が被災地支援を行う」という彼らの活動に共感し、当初は物品のほか売上の一部を義捐金として送り、年度がかわった昨年からは、スタッフ個人の給与から毎月一定額を天引きカンパしています(現在も継続中)。
多くの NGO / NPO が震災後半年ないし一年を一区切りとして撤収するなか、伊達輸送隊と ① Action Project は「被災者の方々からもう必要ないと言われるまで活動を続ける」という方針を貫いてきました。

その活動も、昨夏から一部被災地の状況が徐々に好転するに伴い、少しずつ縮小してきています。
支援を打ち切るわけではないけれど、これ以上本業を犠牲にはできないとの理由から、これまで支援物資配送用に特化していたワンボックスカーを本業用として復帰させることとなりました。
被災者の方々のメッセージで埋め尽くされた車体は、すべて写真を撮った上で新たに塗装し直されます。
これまで被災者の方々と物資やカンパを送っていた私たちの仲立ちをしてくださった佐々木さん、横田さん、その他多くのスタッフの皆さんに、改めて「ありがとう」と「お疲れさま」のことばを送りたいと思います。


正直なところ私は、彼らの使命感や被災者の方々との絆の強さを知るがゆえに、この支援活動に幕を引くことが難しくなっているのではないかと案じており、ちょうど ① Action Project の横田さんと連絡をとりあっていた矢先でした。
被災地支援の必要がまったくなくなる日は、残念ながら少し先になるでしょう。
けれど、このような活動が一部個人の本業や生活の犠牲の上に成り立っているとしたら、それは誰にとっても良いことではないと思います。
幸い横田さんは、「ここまで、と今のところ区切りを打つつもりはありません」「少しずつですが、やめることなく続けていきます」とメッセージを返してくださいました。
私も、その確かな返答を受け取ってようやく、「彼らを追い詰めているのではないか」という迷いが振り切れました。
これまでと変わらず、ささやかながら支援を継続していくつもりです。

最後に、個人の集まりによる小さな、けれど息の長い貴重な活動に目を向けてくださった東京新聞の記者さんに、御礼を申し上げたいと思います。

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足裏の声

2012.06.27.Wed.01:51
 ある日、玄関先に現れた女子中学生は、見るからに落ち込んだ様子でした。「死にたいって、君のどこが言ってるんだい。ここかい?」と頭を指さすと、こくりとうなずきます。私はとっさに言葉をついでいました。

 でも、君が死ねば頭だけじゃなく、その手も足もぜんぶ死ぬ。まず手をひらいて相談しなきゃ。君はふだんは見えない足の裏で支えられて立っている。足の裏をよく洗って相談してみなさい。

 数カ月後、彼女からの手紙には大きく足の裏の線が描かれ、「足の裏の声が聞こえてくるまで、歩くことにしました」と書かれてありました。


上は、作家・高史明氏が、6年前に朝日新聞に寄稿した文章の一節です(全文はこちらで読むことができます。)
当時はまだ、グラフィックデザインの仕事をしていた私。
その翌年に一念発起して靴づくりを目指すとは想像もしていなかった時期なのに、なぜこの記事を切り抜き手許に残したのか、いまとなっては記憶がさだかではありません。

高史明氏は、戦時下に生をうけた在日朝鮮人二世としての自身の半生を綴った『生きることの意味ーある少年のおいたち』を1974年に上梓し、同書は翌年日本児童文学者協会賞を受賞しました。
しかし同年、彼の息子が12歳という若さで投身自殺します。
妻とともに、亡き息子が残した詩を編んだ(岡真史『ぼくは12歳』筑摩書房 1976年)後、高氏は長く息子の死と詩に向き合い続けます。
そして、身を焼くような苦悶のなかで『歎異抄』に出逢い、親鸞の教えに帰依することとなります。

私自身は、信仰を持つ人間ではありません。
ただ、ひょっとすると、当時「死」の観念に惹き付けられていた一人の若い友人に伝えたいメッセージを、この記事から読み取ったのかもしれません。
繊細で鋭敏な感性の持ち主だからこそ感じる、哀しみ。
それは、12歳の少年が残したガラスのナイフのような詩と、ぴったりと重なり合うようでした。
共感をおぼえつつも、思いとどまってほしいと切実に願い続けた日々が、そこにはありました。

死にたいと思い、たとえば手首を切ってみる——その瞬間から、身体は文字通り全身で傷を治そうと動きます。
身体全体が生きる方向へ必死にもがいているときに、心=脳だけが、その営みを封じる決定を一方的にしてしまって、ホントにいいの?
「自殺」を「自分を殺す」と読むか「自分に殺される」と読むかで、印象はだいぶ変わります。

「足裏の声」を聴く。
喧噪から離れ、鼓動に耳をそばだて、皮膚を通して血流の温もりに触れ、呼吸のリズムを静かに味わう。
そういう時間をほんのひととき持つことができるなら、私たちはもう少しゆっくりと人生を歩んでいけるのではないか、そんな気がします。

いま、眠れぬ夜を過ごしているあなたへ…

宝石紫セノビージャ・ハポンの公式サイトはこちら

Fukushima mon amour

2012.06.17.Sun.23:57
昨日、日本政府は関西電力大飯原発3,4号機の再稼働を決定しました。
早ければ来月1日に起動、4日に発電開始の運びとなります。
6月8日の会見で、野田佳彦総理大臣はこのように述べました。
「国民の生活を守るために、大飯原子力発電所の3,4号機を再起動すべきというのが私の判断であります」「国政を預かる者として、人々の日常の暮らしを守るという責務を放棄することはできません」。
そして、本日改めて総理大臣の記者会見を開かなかった理由を、「8日の会見で説明は尽くしているので、必要ない」としたのです。

さらに本日は、経済産業省原子力安全・保安院が、北海道電力泊原発1,2号機、九州電力川内原発1,2号機、北陸電力志賀原発2号機のストレステスト結果の審査を8月までに終える方針を固めた、との報道も流れています。
これは、すでに審査を終えた四国電力伊方原発に加え、上記5基が再稼働の有力候補に加わったということを意味します。

わずか一年ほど前に起きた、東京電力福島第一原発1~4号機の事故。
一企業の設備事故が、対流圏にまで放射性プルームを突き上げた結果、国境を超えて世界中に汚染を拡散し、約16万人(避難指示を受けた直接避難者のみ、2012年2月現在)の避難者を生み出しました(*註)。

(*註)むろんこの他に、膨大な自主避難者がいることも忘れることはできません。避難者の実態調査結果については、以下をご参照ください。
●今井照「原発災害避難者の実態調査(1次)」
 自治総研通巻393号 2011年7月号


●同「原発災害避難者の実態調査(2次)」
 自治総研通巻398号 2011年12月号


●同「原発災害避難者の実態調査(3次)」
自治総研通巻402号 2012年4月号



無人となった地域に取り残され、息を引き取った人々。
離郷により、家族を引き裂かれ、仕事を奪われ、生活を破壊された人々。
健康被害に怯えながら、息をひそめるように暮らす人々。
いまこの瞬間も、危険で苛酷な作業現場で働く下請・孫請の労働者たち。


激しい表現であることを自覚しつつあえて申し上げれば、上記のような人々の存在にもかかわらず、既存の利権構造を維持するために原発の再稼働を「責務」と言い放つことを、私は、人としてこの上なく破廉恥な行為だと思いました。

一年ほど前(2011年4月1日)、私は自身のmixiの公開日記に「二度敗ける」という文章を書きました。
その文章の一部を、今日は再掲いたします。

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震災以前に聞いた、あるドイツ文学者の言葉です。
「二度敗北しないと人間は学ばない」。

ドイツは二度の世界大戦を経てようやく「戦後」を獲得した。
日本(第二次大戦)もアメリカ(ベトナム戦争)もまだ一度しか敗けていない、と。

二度敗北する、とはどういう意味でしょうか。
たとえば、一人の人間が、人生において二度敗北という体験を持つこと。
そしてそのような人間が生きている社会が、社会全体として二度敗北体験を持つこと。
大戦争が体験者の平均寿命を一つのスパンとして周期的に勃発するように、失敗の先例が生かされなくなるとき、新たな危機が訪れるという周期説は、上記のような仮説に基づいているでしょう。
その文学者の言葉を鵜呑みにするわけではありませんが、過ちをおかした時は、徹底的にその経験に打ちのめされてこそ次がある、という趣旨には頷けるものがあります。

「フクシマ」に対するヨーロッパのビビッドな反応には、チェルノブイリ原発事故が大きく関わっているでしょう。それ以前の原発事故、たとえば1957年の英国ウィンズケールの事故は、甚大な被害の爪痕を今日まで残しながら、時のマクミラン政権下で、事故報告書(通称「ペニー報告書」)が政府機密に指定され、長く封印されてきました。
しかし、チェルノブイリ原発事故の翌年、このウィンズケールの事故報告が30年にわたる封印を解かれて人々の眼に触れることになったのです。その後、疫学調査の結果等も公表され、周辺住民の白血病による死亡の実態が知られるようになりました。現在でもこの地域は白血病発症率が高く、全国平均の三倍と言われています。
このふたつの事故は、その後のヨーロッパにおける脱原発の潮流をつくる大きな要因になりました。

しかし、日本は本当に「一度しか敗けていない」のでしょうか。

茨城県東海村のJCOの臨界事故では、多くの作業員が大量被曝とひきかえに臨界事故を収束させ、うち2人の方が事故から数ヶ月の間に「多臓器不全」という痛ましい最期を迎えました。その体験は、生かされてきませんでした。

新潟県中越沖地震における柏崎刈羽原発の火災と放射性物質の漏洩は、事故後の調査で、設置許可申請時の活断層の評価がまともになされていなかった(複数の活断層のうち、いくつかは活断層と認めず、残りの大きさも数分の1程度に評価していた)ことが判明しました。それでも、原子力安全・保安院はこの事故をレベル0-と評価し、柏崎刈羽原発の運転は再開されました。

思えば大戦末期、広島、長崎への相次ぐ原爆投下の後も、国体護持の途を探るために終戦の詔勅は遅れました。結果として、最期の爆撃=大阪大空襲を招来したことは、作家の故小田実さんが生前訴え続けてきた通りです。彼はこの一度の体験を血肉化することで、ベトナム戦争時、空襲の航空写真に写された街=下界で何がおきているかを、一目ではっきりと看破することができたのでしょう。

過ちが過ちであることを認識するのは、能力と同時に感受性の射程の問題でもあるでしょう。ウィンズケールの死者、チェルノブイリの死者、JCOの死者、広島の死者、長崎の死者、大阪の死者、…それがたとえ、あなたの家族や恋人、友人でなくても、そこでは誰かにとって大切な誰かが、命をおとしているのです。
すでに多くの「失敗」と「敗北」を、私たちの社会は経験してきています。

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この日記を書いた後、ドイツ、スイス、そしてイタリアが、脱原発政策へと大きく舵を切りました。
私たちの社会は、これからどこへ向かうのでしょうか。

1万人の人々が首相官邸を取り巻いて抗議の声を挙げても、公営放送が一秒たりとも報じない国で、窒息しそうになりながら、私も一人分の声を挙げたいと思います。

福島を、二度殺すな、と。

歩行寿命と精神的自由

2011.09.27.Tue.01:35
プロフィールの自己紹介欄に、私は「歩行寿命」というあまり聞き慣れない言葉を書き連ねています。
今日は、私が現在の仕事に関わりはじめた「原点」について、ちょっと書いてみようかな、と思います。
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数年前、新潟に住む祖母を訪ねたときのことです。
祖母の家から歩いて一分もかからない場所に、古くからなじみの肉屋さんがあります。
店頭で揚げてくれる熱々のコロッケが大好きで、こどもの頃、お小遣いを握りしめて走った記憶がいまも鮮やかにに思い浮かびます。
懐かしくなり、思わず全種類「大人買い」して祖母の家に戻ると、彼女は歓声をあげました。
「や、や、十何年ぶりらわぁ、いやー、懐かしろぉ」。
そして、はらはらしながら見つめる私の目の前で、大量のコロッケを一人で平らげてしまったのです(私の食い意地のルーツを見た思いがしました^^¡)。

遠方に住む私が懐かしく思うのは当然としても、こんなに近くに住んでるのに?と訊ねると、一人では行けない、という答えが返ってきました。
彼女は、長年患った持病なども原因して、膝関節の疼痛や足部の痺れといったトラブルをかかえています。
家には、至る所に手すりが取りつけられています。
とはいえ、それに頼り切っているわけでもなく、見ているほうが疲れるくらいパタパタと元気に歩き回っています。
でもそれは、自宅が彼女にとって究極の安全空間だから。
たとえ片道わずか一分足らずの場所でも、喫緊の用事でもないのに出かけるという機会は、彼女の日常からすっかり失われていました。
買い物はヘルパーさんや近所に住む叔父に頼み、あるいはその車に同乗し、介助つきで出かけます。
他人様に迷惑をかけたくないという気持ちが人一倍強い彼女は、小さな不便や不満、わだかまりをひとり飲み込むという癖を、知らず身につけていました。
高齢者向けのコンフォートシューズや整形靴を求めたことも一度ならずありましたが、それらの靴はいま、靴箱の片隅でひっそりと眠っています。
そう、彼女にとって、もはや問題は、靴ではないのです。

自分の身体との対話に、心底疲れきってしまった人々は、本当にたくさんいます。
まだ若さにあふれていた時代、
最初に違和感や痛みを感じたとき、
あるいは、挑戦する意欲をまだ失っていなかったころ、…
求めていたときに、適切な情報提供や正確な対処方法のアドバイスが得られなかった結果、彼/彼女たちは、諦めることを覚えてしまいました。

靴や足、ボディワークに関わりを持つ人間として、私には自分なりの理想があります。
「歩行寿命」を伸ばすことは、人生を人任せにせず、自分の精神的自由を手放さない、ということです。
どんな人生を選択するか、決めるのは自分自身です。
どんな生き方を選ぶにせよ、精神的自由という抽象的・観念的なものを担保し実現するのは、身体という、この上なく具体的なもの。
具体ということばを、「体を具える」と書くのは、とても正しい表現だと思います。

コロッケを買いに出かける精神的自由、
散歩する、友人を訪ねる、あるいは映画やライブを観に行く精神的自由、
踊り続ける精神的自由、…

たとえ靴や杖や手すりやベンチの力を借りたとしても、休み休みしながらしか歩けないとしても、以前と比べたらカメの歩みになってしまうとしても、行きたい時行きたい場所に一人で歩いて行ける自由は、かけがえのないものだと思います。
とりわけ、歳を重ねても踊り続けたいと希うならなおさら、若い頃のようには足が動かなくても、自分の身体の声を聞き、自分の身体にきちんと心遣いをするという作業が、きっとフラメンコとの関係をも深めてくれると確信しています。
だって、フラメンコはとっても正直だから。

誰にでも、自分の身体に不満や不安や気に食わないところが、いっぱいあると思います。
私だって、そう。
でも、この身体が私の一生を支えてくれるのだと思うと、ゴクロウサマ、コレカラモヨロシク、と声をかけたくなるのです。

誰もが自分のペースで、自分のリズムで、人生を歩んでいけたらいいな。
そんな風に思いながら、日々この仕事を続けています。

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見えるものと見えないもの 4/4

2011.07.19.Tue.01:06
ホテルでチェックインを済ませた後、再び三人で落ち合い、居酒屋へ。
何はさておき、生ビールで乾杯!
続いて、自己紹介を兼ねた赤裸裸トーク。
特に友人のわねは、ブログを見ていただければ判るとおり、実にドラマチックかつドラスティックな半生を送ってきたツワモノ。
カウンセラーらしい心遣いは随所に散りばめられているものの、イマドキの若人にはちょっと過激すぎる辛口告白に、横田さんは「あー、オレなんてまだまだヒヨッコですねえ!」とぶっとんでいました。
そんなわねの粋な計らいですっかり打ち解けた三人は、ここには書けないディープな自己紹介(私が一番薄味だったかも)を含め、深夜まで盛り上がりました。

とりわけ印象に残ったのは、横田さんが支援活動にまつわる悩みや迷いについて、語ってくださったことばです。
「ブログに、「救援物資をお送りいただき本当にありがとうございます!」って書くでしょ。でも、自分がもらってるわけじゃないのに、ありがとうって何かおかしくないか?って考え込んじゃった時期があったんですよね。だけど原点に戻ってみたら、苦しんでいる被災者の人たちを見て、この人たちを何とか支えたいって思う自分の気持ちを呼びかけて、それに応じてくれた人にありがとうっていうのは、うん、おかしくないな、って気がついて。それからは素直に、ありがとうございますって書けるようになりました」。
小さな違和感をスルーせず、ていねいに向き合おうとする誠実さに、私は感銘を受けました。
思えば震災直後、寄付の送り先を探していた私は、日本赤十字や赤い羽根共同募金会、各県災害対策本部など、さまざまな組織やブループを比較検討していました。
しかし、機動的でなかったり、現地のニーズに合わなかったり、物資が末端まで行き届いていなかったり、被災者個人の支援に直接繋がっていなかったり…という実情を勘案し、結局NPO法人ですらない横田さんたちの「①Action Project」を選択するに至った経緯があったのでした。
この選択はやはり間違っていなかった、と、このとき改めて思いました。

翌日仕事を控えているわねは、最終の新幹線で慌ただしく東京に戻っていきました。
ほろ酔いの横田さんは、「次、行きましょう」と、ご自身が以前行きつけだったお店に誘ってくださいました。
イタリアンバルとカフェバーが合体したような、お洒落なお店でした。
馴染みの店長さんは不在でしたが、横田さんと顔見知りの店員Iさんが迎えてくれました。
夜が更けて他のお客さんが帰ってしまうと、お店は貸し切りになりました。
Iさんは、今年結婚し、先月赤ちゃんが生まれたばかりとのこと。
先月! …どう反応していいのか、一瞬ことばに詰まりました。
横田さんはIさんに、「この人はね、東京から福島を救いにに来たんだよ!」と意味不明な紹介をしてくれ、それから今日の一連の出来事を説明しはじめました。
さらに二人は、他のお客さんがいるときには決して口にできないであろう原発事故後のあれこれについて語り続けました。
時に笑いを交え、時に苦渋の表情を浮かべながら。
だいぶお酒がまわってきたかな…と思ったころ、横田さんはグラスを両手で握りしめ、唇をかみしめたあと、うめくように呟きました。
「ゲンパツ、が、…なあ……」

彼らの原発事故への認識が甘すぎるのでは、などと思っていた自分の心臓が撃ち抜かれる思いでした。
たとえ情報が不足していても、正確な報道がなくても、危機感は肌で、身体で、みな感じているのです。
横田さんも、Iさんも、みんなギリギリで耐えているんだ。
今日を生き抜くために、必死で闘っているんだ。
私は明日、東京に帰ってしまう。帰る場所がある。
東京だって決して安全とは言えないけれど、でも少なくともこことは全然違う。
何もかもが、桁違いに違う。
そのことが、とてつもなく理不尽で、アンフェアで、赦しがたい悪のように思えました。

ホテルまで送ってくださった横田さんに、別れ際、私はこう伝えました。
私がマスクをして歩くのは、自分を護るため、だけじゃないの。
もしマスクをつけたいと思いつつためらっている人がいたら、勇気を出してほしいから、その人へのメッセージをこめて、マスクをしているの。
明日から、あなたにもマスクをしてほしい。
本当は、若い人にはここにいてほしくないけど、逃げてほしいけど、でももしここにとどまるなら、少なくともマスクはつけてほしい、と。
「そうだったんですね… わかりました。そうします」。
横田さんは、そう答えてくれました。

部屋に戻ると、あらかじめ入口に用意していたファスナーつきビニール袋に靴と裏返しに脱いだ衣類を密封し、マスクを水で洗った後ポリ袋に放り込んで捨て、手洗いうがいをしてシャワーを浴びました。
髪を洗っているとき、昼間見かけた自転車の少女の姿が、浮かんできました。
続いて、若い母親に抱かれた赤ん坊が。中学生らしい男の子たちのやんちゃな笑顔が。居酒屋の若い店員さんや、来店していた若いカップルたちが…。
やわらかく、小さく、愛おしい、すべてのもの。
平穏な生活。ささやかな喜び。未来への希望。
それらを、目に見えない幾千幾万の刃が刺し貫いていくイメージに、私はもう耐えられなくなりました。

シャワーを浴びている間中ずっと、私は声を上げずに泣き続けました。
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